齋藤拙堂顕彰会ホームページ

津市が誇る歴史上の人物「齋藤拙堂」の偉業を伝える

齋藤拙堂とは

 齋藤拙堂は、寛政9年(1797)に江戸の津藩邸で生まれ、幕府の学問所(昌平黌)の教授古賀精里について学び、文政3年(1820)、津藩校有造館の創設に伴い24歳の時に教官に採用され津に移りました。26歳の時には早くも講官(教授)に昇進し29歳の時は幼い第11代藩主藤堂高猷(たかゆき)の侍読(教育主任)を兼務します。その後は生涯にわたり藩校教育及び藩主の学問指導と政治顧問の仕事に献身し、特に藩校の有造館3代督学(学長)として、津藩の文教を「天下の文藩」といわれるまでに向上させた功績は大きいものがあります。拙堂は「拙堂文話」や紀行文「月瀬記勝」などの著作によって全国に文名が高く、また経世の志に篤く、天保大飢饉や外国船が日本近海に出没する事態に遭遇して、内外情勢の研究を進め有効な政策提言や有益な啓蒙活動を行いました。59歳の時、幕府は拙堂の高い学識を評価し、儒官(昌平黌教授)に抜擢しようと第13代将軍家定に謁見させましたが、津藩の恩義から拙堂は就任を辞退しました。63歳で藩校督学を退任し、以後は、津城北部の茶磨山荘で自適の生活を送りました。その間拙堂の意見を聴き、また教えを受けるため吉田松陰・横井小楠・河合継之助・三島中州等の多くの有名人が全国から山荘を訪ねております。拙堂は慶応元年(1865)に69歳で没し、四天王寺に葬られました。