齋藤拙堂顕彰会ホームページ

津市が誇る歴史上の人物「齋藤拙堂」の偉業を伝える

齋藤拙堂の生涯

 津藩校有造館の第3代督学となったのが、漢学者の齋藤拙堂です。  拙堂は、本名を正謙、通称徳蔵、字を有終、別号を鉄研と称しました。 寛政9年(1797)に津藩江戸藩邸に生まれ、2歳で母を失い、3歳のときに痘瘡(天然痘)にかかりましたが生を得て、長じて昌平黌(江戸幕府の学問所)に学び、儒学者の古賀精里に師事して学問を究めました。
 20歳の頃には既に立派な学者として名を成し、文政6年(1823)には26歳で藩校講官となり、その後29歳で若き11代藩主藤堂高猷(たかゆき)の侍講(教育主任)を兼務しています。藩主の信頼も厚く、一年おきに江戸に随行して多くの学者・文人と親交を結びました。
 天保14年(1843)には47歳で藩校の督学参謀に、翌弘化元年(1844)には石川督学の死去に伴い第3代の督学に就任しています。
 安政2年(1855)に幕府の要請で13代将軍徳川家定に謁見し、幕府儒官への登用を打診されましたが、これを固辞し、その後も津藩主高猷のもとで仕えました。安政6年(1859)拙堂は63歳で一線を退き、津城北郊の茶臼山に茶磨山荘を建てて穏退しますが、その後も拙堂と四方の学者・文人との交流は続き、時局を語り、酒を酌み交わす自適の生活を送りつつ、時には藩主高猷も意見を求めて拙堂を訪ねたといわれます。
 慶応元年(1865)7月14日、病のために亡くなり四天王寺に葬られました。享年69歳。生涯を津藩の発展向上に尽くした人生を閉じました。